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平将門 武蔵武芝


2004年3月26日 金曜日 20:39:50

2004年3月07日 21:19:59

足立遠元の母の家系について最近興味ある記録が見つかったので紹介する。

これは足立遠元が足立姓を名乗ったこと、足立郡を領掌したことと大いに関係がある。

『将門記』に平将門は武蔵国足立郡での武蔵武芝が武蔵権守興世王・武蔵介源経基との紛争にさいし、「武芝は我が血縁ではないが彼の窮地を救わん」と将門が調停に乗り出し、結局失敗に終わった話として出てくる。

じつは、40年ほど前に、足立家のルーツを調べ始めた頃、太田亮氏の『姓氏家系大辞典』をひもとき、その足立の項に、

"角井系図に「竹芝の女子、社務相承、武蔵介菅原正好の妻、その子菅原正範・外祖父の跡を継ぎ氷川社務司となる。この子行範・足立郡司」とある如く、菅原あるいは籐氏と血縁関係を結び、ついにその系を冒すに至りし事もとより無きを保し難し"

とかかれているのをみた。

しかし太田亮氏はそれ以上の根拠を示していない。示すべき根拠も持ちあわせずに、武蔵武芝がかって足立郡判官代であった事を引用してそこに記録したのではなかろうか。

それにしても、そのご40年の間、常にそのことが私の頭の隅に居着いて離れず、気になっていた。

太田亮氏のいう角井家は武蔵国造家の流れで、東西に分かれ今有名なのは西角井家であり、先祖は天穂日命で出雲国造の一族である。出雲出身の彼らがなぜ坂東に住み着いたか、しかも神を伴って。

氷川神社は出雲の氷の川の流域にある杵築大社を移したものといわれ素戔嗚尊・大國主命・串稲田姫の三体を御神体としている。この氷川神社は武蔵国に集中し、その中でも往古の足立郡に密度が高く、その中でも最も大きいのが旧大宮市の台地に武蔵国一の宮として鎮座している大宮氷川神社である。
その西角井系図から、武芝の娘が菅原正好の妻となって氷川神社の社務を相承した、とい
うことは知っていた。 

昨年の秋、あるサイトから武蔵武芝には今一人の娘がいて、秩父六郎平将恒の妻になっている事がわかったのである。
将恒の父は忠頼、祖父は村岡次郎良文で忠頼は将門の従兄弟に当たる。そして将恒の子孫は嫡男の系統が畠山重忠につながり、次男の子孫が豊島(てしま)一族で遠元の母へと続くわけである。

この事実をもとに、今一度遠元の母の家系について調べてみようと考えた。

 『坂東の中世』(埼玉県秩父市・坂東中世史研究会)創刊号の「豊島氏系譜考」の中で守屋利幸氏は
「将恒は頼光の四天王の一人平忠通の女を妻として武恒を生む」(『続群書類従』第138・第146)
と書いているが、その『続群書類従』を克明に調べてみたけれども、もそういう記録は見つからなかった。逆に奥州相馬系図の中に
「忠頼、村岡次郎良文子、継将門が跡」
とあり、不思議に思ってなお調べていくと、第143、「千葉系図別本」に良文の跡を将門が相続し、その傍注に
 「良文為に甥たるに依りて養子に成家督相続、其の以後嫡子忠頼跡譲」(後述)
と書かれていたのである。

國香が将門を攻めた染谷川の合戦では、國香の弟の良文は義によって将門に助太刀し國香を滅ぼしたと言われているが、若くして鎮守府将軍であった父を亡くした将門を叔父の良文が扶助していたのかもしれない。染谷川の戦いは将門の父が國香に預けていた領地を國香らが横領したことにも原因があったわけで、國香は27歳になった将門(豊田の小次郎)が京の都から引き上げてくるのを待ち受けて一気に抹殺するつもりであった。

事の顛末はともあれ、このようにみてくると、将門と秩父平氏の良文・忠頼との関係はよほど密接であった事と思われるのである。
将門・将恒という通字の上からもそのことはうかがえる。系図では明らかではないがもしかしたら右の図に書いたように将恒は将門の娘と忠頼の間に生まれたのかもしれない。
一方、自分の介入で逼塞を余儀なくされた武蔵武芝を将門が庇護し、自分の養家である秩父一族に預け、そしてその娘の一人を将恒に嫁がせた事も、先にいったような関係からすればあり得たのではなかろうかと思う。

そして氷川神社の社務職は菅原正好に、足立郡の郡司職を秩父氏に渡し、豊島氏が継承して豊島康家から外孫の足立遠元に譲られたと考えればつじつまが合うのではなかろうか。

足立家の系図の遠元のところには、
「母豊島兼仗平康家女 外祖父康家足立郡地頭職を譲り与ふ、依って一円これを知行す」
とある。

上の系図は以上の推論から想像して書いたものであり、歴史研究家の参考になりうるか否かは今後の裏付け捜査に依って、評価されるであろう。


残念ながら、今のところ武恒の母が武芝の娘であったかどうかは不明である。しかし将恒の二人の子がともに「武」の付く名(武基・武恒)であることからすると、この二人が武蔵武芝の孫に当たる可能性も以外にあり得るわけで、もしかすると遠元にも将門と武蔵武芝の血が流れているのかもしれないと想像する。

将門は平新皇を名乗り、坂東八ヶ国に君臨しようとして朝敵として滅ぼされた。しかし将門の子孫は相馬一族として明治まで続き、子爵を授かっている。だが当時は国賊の一類として見られることを恐れ、秩父氏も将門との関係を表面には出さなかったのかもしれないが、それが相馬系図や千葉系図に書かれた記録がヒントとなって今、明らかにされようとしているのである。

上の系図でも書いているように、「遠元の母は康家の子となっているが、康家を{仗とする系図は「丹波足立系図」以外には見えない。もしかしたら遠元の母は康家の父、常家であったかもしれない」というのが前出『坂東の中世』の守屋利幸氏の意見である。
しかし時代的にみて、それが可能かどうか。
頼義が安倍貞任に破れて主従7騎、命からがら前線を逃れたのが天喜5年(1057)、後三年の役が始まったのが永保三年(1083)で、遠元の生まれは推定ではあるものの大体1120年代であるから、可能性はあるわけである。

以上の推論から、武蔵武芝の娘、すなわち将恒の妻を介して足立郡は秩父権守豊島武恒の支配するところとなったが、一方後に豊島清元・葛西清重らが支配した下総國葛西郡と、康家が本拠地とした武蔵国豊島郡の2郡は「千葉大系図」によると、治安3年(1023)春、武蔵介藤原真枝が勅命に背いたとき、将恒がこれを討ち、その功によって賜ったと書かれている。

上の系図によると忠通は将門の弟のように書かれているが、実際には忠通は忠頼の弟である。この忠通は、源頼光の四天王の一人と云われる平貞道に比定されており、すでにこの時点で秩父平氏は源氏と主従関係にあったのであろうか。
いずれにしても忠通より1世代下の武恒と源氏との主従関係を示す積極的な資料は存在しないのである。
坂東平氏が源氏の傘下に組み込まれていくのは千葉忠常の乱から以降であるようだ。

 布川本「豊島系図」
     属于源頼信頼義将軍、寛治3辛亥年6月出張奥州 同7月13日臨攻戦揮武勇取数    首其後属有軍功
 「豊島宮城系図」
     頼義奥州陣之時供奉而し有軍功
 「千葉大系図」
    属
源頼義奥賊安部貞任、宗任一之時、武恒、常家戦功。遂兄弟討死。
とあり、ここからようやく源氏との主従関係が具体的になってくる。上の記録は云うまでもなく前九年の役のことで、『源威集』に天喜五年冬、鎮守府将軍源頼義、安部貞任軍に敗退して主従七騎前線から逃れた中に『豊島平{仗常家」の名が書かれている。「般若院千葉系図」でも常家の傍注に「八幡殿の内、七騎の内」と書かれている。

先にも書いたように足立遠元の母が康家ではなく、康家の父の常家であったとすると、遠元は源頼義・義家に身近に仕えた祖父・常家の奥州戦乱での活躍の記憶を身近なものとして育ち、為義・義朝とも近しい関係にあったことは云うまでもない。
そういった関係を維持しながら、時は保元・平治の動乱へとなだれ込んでいったのである。

『源平闘諍禄』
将門と妙見大菩薩
将門の経歴
武蔵武芝と秩父平氏
『将門記』の風景
『将門平新皇への野望

将門研究における問題点

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