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将門研究における問題点


2004年4月27日 火曜日 23:37:57

この将門研究において非常に問題となるのは、その対象となる資料が殆ど『将門記』に限定されているという現実にある。
 世の歴史書はその殆どが勝者の側から語られ、敗者の記録が抹殺されてきた。『古事記』『日本書紀』を始め、洋の東西を問わず、それは同じ原理で繰り返されている。
 私がこの「HP」の畠山重忠を書くに当たっても、それは同じ事で『吾妻鏡』の中であれだけ饒舌に重忠を誉めあげておきながら、その後の資料となると全くと言っていいほど資料は見つからなかった。

 ここに『東国の反逆児 平将門』という1冊の本がある。作者は山崎謙氏である。
この本の特徴は作者、というか論者が弁証法を専門とする哲学者である事だが、哲学者が歴史に取り組むという事はそんなに珍しい事ではない。梅原猛氏は法隆寺を題材とする『隠された十字架』をはじめとして数多くの歴史探究の著書をあらわしている。
 彼ら哲学者は専門の歴史学者と違い、哲学という思考で歴史を捕らえ、その是非はともかくとして歴史の世界に一石を投じてきた。

 ただ、ここに紹介する山崎謙氏の場合は、それらと一線を画し、ある意味では当事者の立場から将門を見つめようとする立場にあって、その意味では純粋な哲学者の枠を越えた将門論を展開している事である。
それというのも、巻頭の辞の中で山崎氏は次のように語っている。

「私どもの先祖と将門との間に格別の関係があった為に、他では手に入らないような資料が残っており、私が世に出さなければ永久に消え失せてしまう事をおそれたのである。私どもの一家は現存記録をたどりうる限りにおいても、49代まえまでさかのぼることのできる、いわば東国の豪族の末裔である。・・・・土着の古さにおいては将門の先祖などを遙かにしのぐ重みを持っていたらしく「天慶の乱」では、将門を鼓舞激励し、彼の決起に力を貸したらしい形跡もある。・・・・将門を推理するに役立つ「門外不出」の資料も、今なをかなり保存されている。・・・・」

山崎氏の妻方の家系というのは染谷氏で、その実家の近くには染谷川という古戦場もあり、山崎氏自身猿島に近い埼玉県北葛飾郡庄和町に住んでいて、少年の頃から将門の由緒になじみがふかいという。

私は「平将門と武蔵武芝」のサイトで豊嶋氏の祖の将恒は将門の娘と村岡二郎忠頼の間に生まれたのであろうと推理した。これはあくまでも名前の「将」からの推理で確信のあるものではなかったが、山崎氏はそのことを次のように書いている。

第二の将門といわれる平忠常の父の村岡二郎は、将門の女を娶っていた関係もあって、父の五郎将文と共に、将門を裏面から助けたが、将門の没後も無事であり、将門の旧領の大半(千葉・相馬)を受け継いだ。

ただ、山崎氏は忠頼の父を将文と書いているが、村岡五郎平良文というのが通説である。もし将文という呼び名が山崎家の記憶、あるいは文書の中にあるとすると、前にも述べたように、良文が将門の養子になったという説に符合し、私の系図を書き換える必要に迫られるが、実際には良文の方が将門より10何歳か年上のはずである。
そして『将門記』に登場する平将文は、新皇宣言の後に行われた除目で相模守になった将文がいる。彼は将門の4番目の弟として位置づけられている人物である。
しかし村岡という地名は相模國鎌倉にもあり、村岡の名の起こりの最有力といわれているから、あながちこの説をに比定はできない。

今ひとつの疑問は、子飼の渡しの戦いで将門に与力したのは十一面観音であると山崎氏が書いている事である。
茨城県北相馬郡守谷町大木に「本殿」とよばれている須加氏という旧家があり、将門の反逆にも荷担したと云われているが、その一族から筑波郡谷和原の禅福寺(将門創建の寺)に嫁いだ老婦人の話では、彼女の若い頃の須加家に、大きな柳行李二つにぎっしり詰まった古文書があって「見ると目がつぶれる」と言い伝えられていた。それは山崎氏の本家「染谷家」の「門外不出」の資料とそっくりの話だという。須加氏は将門反逆の時、かなり重要な背後勢力としての役割を果たしたという話である。
その禅福寺に将門の画像と「縁起書」か保存され、将門が子飼川を渡ってもたらしたという「十一面観音」が秘仏として保存され、7・8年目事にご開帳されているという。



禅福寺の門に掲げられた将門の定紋


図書館から借りたこの本には、カバーがなくそこに掲載された将門の画像を見る事ができないのは残念である。

さて、本題に戻るが、妙見大菩薩と十一面観音がどこで入れ替わったのであろう。山崎氏の説を再現すると
「子飼いの渡しで矢が尽きて将門が苦戦に陥った時、日頃尊崇する「十一面観音」が童児に化身して、矢を与えて急を救った、というのである。住職の野村俊明法印夫妻の格別の計らいでその像を拝見する事ができた」と云っている。

しかし上の図でもわかるとおり、将門の定紋は九曜である。しかし考えてみると、これにはなんの不思議もないのである。妙見大菩薩が将門に云った言葉を思い出してみよう。

「吾は是れ十一面観音の垂迹にして、五星の中には北辰三光天子の後身なり。汝東北の角に向かひて、吾が名号を唱ふべし。自今以後、将門の笠験には千九曜の旗を差すべし」

すると禅福寺の言い伝えを信じれば妙見大菩薩は十一面観音の化身として現れた事になる。

ここで少し整理をしてみたい。
仏である妙見大菩薩が実際に、あっちに行ったり、こっちに行ったりするわけはなく、それらはすべて現世に生きる者の都合で語られているのである。それは単に信仰という精神的なよりどころによって語られているにすぎない。だから忠常以降も妙見大菩薩が千葉氏を護ってきたと千葉一族が信じるなら、それはそれで良しとしなければならないだろう。
いずれにしても禅福寺に伝わる十一面観音は、将門が子飼川の合戦の後、上野國の花園という寺から迎え入れたものと云わなければならない。

「門外不出資料」とはいったいどんな物なのか、下に示すのがその一例である。これらの資料を残した人たちは、千数百年前の古い時代から、一時も目を離すことなく東国の歴史の推移を見守ってきた。この事実は単に記録や伝文の多寡に関係なく、歴史を重厚な物として今に伝えている。そして山崎氏によればこのような古資料を保存している家は東国にはまだほかにもあるという。

上の系図は西茨城郡岩瀬町の高橋家に伝わる物で、高橋家は「神宮司」(神宮寺)という通称で呼ばれる名門であり、屋敷の傍らには鹿島神宮がまつられている。記録によれば将門の次弟の御厨三郎将頼の末裔で盛光という人が元和九年の七月に、この鹿島神宮の守護職に任ぜられた。
将門が敗北し、弟の将頼が討死した後、その子の将兼が常陸國下泉に亡命し、家来の苗字「高橋」を名乗って、世を忍んでいたという。下の図は系図を見やすく書いた物。


上の系図に見るように、将門は二度にわたって、嫁ぎゆく娘を略奪し我がものとしている。この時代の略奪婚はそんなに珍しくはなかったようで、略奪する方とされる方が、半ばなれ合いで行われているようなこともあったようである。
そして、将兼には父将頼に関して、あるいはその父を死に追いやった将門について、もっともっと書かきたい事があったであろうのに、この記録には「天慶二巳亥年自親王名乗焉」と書かれているのみで、あとは略奪婚の話だけである。
ある意味ではほほえましいと云えなくもないが、考えようによっては真実の歴史を書く事もできず、自らはもちろんの事、子孫にまでその家系の存在をひた隠しに隠す事を強いた苦渋の決断は、哀れといえよう。
右の図版は、将兼が亡命してから正保元年までの七百年あまりの系譜はわからない、と下に示すようにように書いているのである。
「天慶四癸酉年三栗谷三郎ヨリ正保元年鹿島神社別当神宮寺了仙迄37代間系図不詳候」
 御厨を「三栗谷」と書き換え、わかっているにもかかわらず700年もの長い年月の間、将門の一類である事をひた隠しに隠し、その間の系譜を不明と偽って隠しとおしているのは、この一族の存在そのものが「門外不出」の状態にあった事を示している。

ちなみに、この家の現在の当主も「盛光」というそうである。
御厨三郎の差料という家重代の湾月刀を今も所持しているという。

山崎健氏はこれらの資料について次のように語っている。

「文書の体裁をとっているものでも、もとより専門家でない人の簡単な備忘録であり、染谷本家の代々の当主が子孫のために是非ともつたえ聞かせたいとおもった重大事件を、ごく事務的にしるしたものであって、それだけではなんのことかわかりにくいものも多い。転変きわまりない歴史の荒波を乗りきって祖先の遺業を後の世代に手わたそうとするかれらにとって、家代々の大きな経験をどんな形式でかつたえのこしてやることは、家系をうけつぐ子孫にたいする大事な義務であったらしい。そのことをものがたるような慎重な心づかいが、資料全体をとおして読みとれる。同時記述もあるし、つたえ聞かされてきた事柄を後の世代が文字にしたためたらしいものもある。そういうものが、おびただしい量の帳簿類などと入りまじって、久しいあいだ手もつけずに下積みされてきたので、簾虫と鼠による被害がいちじるしく、ごく古いものになると、殆んど判読できないまでに朽ちはててしまっている。
 将門個人について直接に記録された資料はほんのわずかしかないが、将門時代を知るに必要な資料は、量質ともに豊富な方であろう。それをとおして将門の人物や業績を追求すれば、かなり正確な将門像がえがけるようにおもう。
 ありがたいことに、この資料をのこした人たちは、民衆から孤立していなかったので、記録や口伝には民衆の血がかよっており、ながい年月をへだてた今日でもなおそこから、生きた歴史のいぶきを感じとることができるのである。
 この資料のいま一つの価値は、これをつたえる家系が千数有年まえの古い時代から、寸時も目をはなすことなく東国の歴史を見まもりつづけてきた、という事実である。この事実は、記録や口伝の多寡を越えて、その内容の歴史性に重味をつけているといえるだろう。この種の古資料を保管している旧家が、東国には、はかにもまだある。たとえば、現在は水海道市菅原町(旧菅原村)の土豪、坂野伊方衛門家や、守谷市所属の旧大木村の家族、通称「本殿」の名で知られている須賀家などが、それである。両家にかんしては後にも述べるが、やはり「門外不出」の「家君の教」をまもりとおしてきた家柄であり、これらの家々の資料を、その一部分にもせよつかうことのできた人は、これまでは、『猿島の郷土史』を書いた今井隆助ぐらいのものであろう。」

要するに我々は、平将門を語るにあたって、その典拠をあまりにも『将門記』に偏在していないか。
確かに『将門記』の時代の資料には乏しい。たとえば将門の娘が村岡二郎忠頼の妻になったという事実は、どの豊嶋氏研究者も、今まで一言もふれてこなかった。もしこの事実を知っていたなら、真偽のほどは別としても、そういった説があるというだけでも、必ず書かなければならないはずなのである。にもかかわらず今まで私の知る限り、豊嶋氏研究者に限らず、古代末期の関東を研究する人々が、それを取り上げているのを見たことはない。

私のような歴史の素人が仕事の片手間の研究によって、わずか2ヶ月足らずの間に見つけ出すことができたのにである。



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