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将門と妙見大菩薩信仰

 『平家物語』諸本が貞盛・清盛流の平氏の系図を簡略に伝えているのに対し、良文流秩父平氏の系図を伝えているところに、この『源平闘諍禄』の特徴がある。しかも、 延慶本をはじめとする『平家物語』諸本が「朝敵」として扱う将門を『源平闘諍禄』では千葉氏の祖として堂々と語っているのも注目すべきであろう。

良文は村岡五郎というが、熊谷市村岡、神奈川県鎌倉の村岡、茨城県結城郡千代川村村岡、とその村岡にも諸説があって、確定していない。そして中でも鎌倉の村岡がもっとも有力な説だという、三浦・鎌倉という氏族の先祖であるのがその根拠であるらしい。だとすれば千葉氏なども当時有力な氏族であったし、そもそも秩父を本拠として秩父平氏を唱えたはずである。秩父平氏は秩父の山間部から徐々に平野部へと進出し、坂東の沿岸部に勢力を敷衍して行ったはずで、良文・忠頼の時代はまだ秩父の山間部から離れても射なかった。 この良文は上総・下総・武蔵・相模などに広がった坂東八平氏の祖となった人である。
 
先に引用した『源平闘諍禄』の文言からすると、叔父である良文が甥の将門の養子になったかのような書き方であるが、そのことは『般若院本千葉系図』や『神代本千葉系図』などにも書かれていると云いう。
先に紹介した『続群書類従』千葉系図別本のほか、『妙見実禄千集記』や『臼井家譜』などは将門が養子になったと書いているそうである。
こう見ていくと、養子になったか、養子にしたか、いずれにしても良文と将門の関係は無視することはできないであろう。




 ではここで、将門に関連のある妙見大菩薩について『源平闘諍禄』の記述を見ておきたい。

 源頼朝の云うには「侍共承るべし。今度千葉の小太郎成胤の初戦に先を懸けつる事有難し。勲功の賞有るべし。頼朝もし日本國を打ち随へたらば、千葉には北南を以て妙見大菩薩に寄進し奉るべし。抑も妙見大菩薩は、如何にして千葉には崇敬せられたまひけるにや。又御本体は何の仏菩薩にて御座しけるにや」と。千葉常胤への問いかけに対して常胤は次のように答える。(少し長いがご辛抱)

常胤畏まって申しけるは 「この妙見大菩薩と申すは承平五年八月の頃に、相馬の小次郎将門、上総介良兼と叔父甥不快の間、常陸の国において合戦を企てる程に、良兼は多勢なり、将門は無勢なり、常陸國より蚕飼河の畔に迫め着けられて、将門河を渡さんと欲るに、橋無く船無くして、思い労ひける処に、俄に小童出で来たりて、「瀬を渡さん」と告ぐ。

 将門此れを聞きて蚕飼河を打ち渡し、豊田郡へ打ち越え、河を隔てて戦う程に、将門矢種尽きける時は、彼の童、落ちたる矢を拾ひ取りて将門に与へ、之を射けり。亦将門疲れに及ぶ時は、童、将門の弓を捕って十の矢を矯げて敵を射るに、一つも空箭無かりけり。此を見て良兼「只事にも非ず、,の御計らいなり」と思ひながら彼の所を引き退く。

 将門遂に勝ちを得て、童の前に突い跪き、袖を掻き合わせて申しけるは、「抑も君は如何なる人にて御坐しますぞや」と問ひ奉るに、彼の童答へて云はく、「我は是れ妙見大菩薩なり、昔より今に至るまで、心武く慈悲深重にして正直なる者を守らんと云ふ誓ひあり。汝は正しく直く武く剛なるが故に、吾汝を護らんが為に来臨する所なり。自らは即ち上野の花園と云ふ寺に在り。汝若し志有らば、速やかに我を迎え取るべし。吾は是れ十一面観音の垂迹にして、五星の中には北辰三光天子の後身なり。汝東北の角に向かひて、吾が名号を唱ふべし。自今以後、将門の笠験には千九曜の旗を差すべし」と云ひながら、何ちとも無く失せにけり。

 仍って将門使者を花園へ遣はして之を迎へ奉り、信心を致し、崇敬し奉る。将門妙見の御利生を蒙り、五ヵ年の内に東八ヶ国を打ち随へ、下総國相馬郡に京を立て、将門の親王と号さる。然りながらも、正直陥侫と還って、万事の政務を曲げて行ひ、神慮をも恐れず、朝威にも憚らず、仏神の田地を奪ひ取りぬ。

 故に妙見大菩薩、将門の家を出でて、村岡の五郎良文の許へ渡りたままひぬ。良文は叔父為りといへども、甥の将門が為には養子為るに依って、流石他門には附かず、わたるられたまひし所なり。

 将門、妙見に棄てられ奉るに依って、天慶三年正月二十二日、天台座主法性房の尊意、横河において大威徳の法を行ひて、将門の親王を調伏せしむるに、紅の血法性房の行ふ所の壇上に走り流れにけり。ここに尊意急ぎ悉地成就の由を奏聞せしかば、御門御感の余りに、即ち法務の大僧正に成されにけり。妙見大菩薩は、良文より忠頼に渡りたまひ、嫡々相伝へて常胤に至りては七代なり」

ここに書かれた頼朝から千葉常胤への問いかけのもととなったのは、下のような出来事に際して、成胤の取った行動に対して行われたものであった。

平家方・千田判官代藤原親正は伊豆・石橋山の合戦に破れ安房に敗走した源頼朝を討つべく一千余騎の軍勢を率い下総まで押し寄せた。折しも当地を本拠とする千葉介常胤は一族・郎党を従え下総の千葉館から源頼朝を出迎えるべく上総に出向いており、この事態に館に留まっていた十七歳の孫・成胤は敵方をそのまま見過ごすのは武士の面目に欠けると果敢にも館に残る僅か七騎を率いて戦いに臨んだのであった。もとより成胤は圧倒的苦戦を強いられたが、その時、忽然と「有僅 童、敵射箭受取中成胤及軍兵等」遂に勝利をおさめることができたという。
これを知った頼朝はその奇瑞に触れて「抑、妙見大菩薩云何千葉被
崇敬乎、又御本躰御座何仏菩薩」と千葉介常胤に尋ねたところ、常胤は千葉氏の信奉する妙見の示現は承平五年(九三五) の平将門と同族・良兼との合戦に遡り、その折、俄に現れた「小童」は「弓」と「矢箭」をもって将門に助力して勝利に導き、自ら「吾是妙見大菩薩也」、「是十一面観音之垂迩」と明かしたという。その後、妙見の守護は将門から良文方へ移り、以後、千葉氏が嫡々相伝することになったと言上するのであった。
 

下の図は千葉県東庄町役場保管の東保胤氏蔵の妙見像である。この像は千葉常胤の第六子で香取郡東庄33郷を本領として東氏を名乗った六郎胤頼の末裔が伝えるもので13世紀後半の作造と指摘されている。

然しこの妙見大菩薩の説話は常胤の云う承平5年よりもまだ古く、良文の母が日月北辰に祈り、天より童子姿の妙見が下った夢を見て良文を身ごもったとされている。



なを付言するならば、染谷川で良文は将門を援護したのではなく、敵味方として戦ってそのとき良文に妙見が味方したという『千葉実録』『総葉慨禄』『臼井家譜』などの文書が存在し、良文と将門が連合して良兼らと戦ったとするものには『千葉伝考記』『千学集抄』『妙見実録千学集』などがあるようである。


しかし、前にも書いたように正義に味方する妙見が関八州を略取しようとした将門から離れて秩父の良文のもとへ帰ったとすれば、その後の乱によって討伐された千葉氏の祖・忠常からも離れていなければならない。しかしその後も千葉氏に附いていたのだとすれば、それは妙見大菩薩の意志ではなく、千葉氏の側が何かの理由でそのように信じようとしたのであろう。
そしてこの妙見信仰を介して、千葉氏はその先祖が平将門で有る事を強調しているという事実を披瀝するにとどめてこの項をおく。



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