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斎院次官中原親能

 中原親能について見ていこう。大江廣元と中原親能、この二人は母は違うが、父は共に藤原光能という切っても切れない関係で結びついているのである。
まず『尊卑分脈』に次のように書かれている

  按大友家文書録系図纂大友実父藤光能卿、外祖父廣季為子後復本姓
そして『平安・鎌倉人名辞典』はその『尊卑分脈』の解説のように、つぎのようにかかれていた。
『鎌倉時代前期の明法博士、中原廣季の子、「大友系図では実父を参議藤原光能とし外祖父廣季に育てられ、中原姓を継いだが後に本姓に復したと」している。頼朝に従い武家方の貴重な能吏として信任を得、元歴元年には公文所の設置に際し、その寄人に選ばれている。また在京することも多く、九条兼実の摂政就任、平家追討などで頼朝の意を受け、公家の間を奔走している。その功があって斎院次官から式部大丞、さらに文治2年、京都守護として六波羅に赴く。頼朝の三女三幡の乳母夫であったため三幡の病死で出家、承元2年12月18日66歳で京都において死亡』

『群書類従』所収の「大友系図」によると、



能直は波多野経家の娘が産んだ子であるが、親能が自分の子として育て、頼朝の側近として活躍した。能直は上の系図にもあるように元々頼朝の烙印という噂のある人であった。経家の娘利根局は能直が一法師丸と呼ばれ、まだ襁褓にくるまれている頃に親能の妻となり、義直を育て父の大友姓を名乗らせたのである。親能の妻はこのほかにも頼朝の次女三幡の乳母を務め、能直は三幡の病気に際し京都まで医師丹波時長を迎えに行って建久10年5月7日に鎌倉に伴っている。そうして乳母夫である親能は三幡の死に際し入道出家したのであった。それより以前、親能の妻は京都でももう一人、後で触れる中納言源雅頼の次男、左少弁兼忠の乳母夫なり、と『玉葉』寿永2年9月4日条に九条兼実は書いている。

 これらの記録から大江広元と中原親能は異母兄弟であったことが明らかである。大江広元の母は碩学大江匡房の孫として生まれた。匡房は源師房と共に後三条天皇の改新政治を支え、延久の荘園整理などを断行しそののち白川・堀河天皇に仕えた。その孫でもなを藤原光能の正妻となり得ず、大江家に連れて帰られた廣元は母の兄、大江維光の養子となり、その後中原廣季に再嫁した母と共に中原家に移り廣季の養子になっている。従って中原家には腹違いではあるが藤原光能の子が二人いたことになる。
 そしてその後、藤原光能は足立遠元の娘を正妻として娶り知光、光俊を生んだ。さて、明法博士でも文章博士の家系でも正妻たり得ず、武藏武士の足立遠元の娘が正妻に収まったその謂われとはナンなのであろうか。もしかしたら足立遠元の娘は関東から来たのではなく、京都のいずれかの貴顕の子女が産んだ子であるのかもしれないし、また考えようによっては遠元自身が貴顕の血を引く存在であったかもしれない。

 ところでその中原親能がいつ頃から藤原を名乗るようになったのか判らないが、寿永2年10月半ばに頼朝が木曽義仲をうつべく義経を上方へ派遣したとき、その情報は10月17日、すでに九条兼実の知るところとなり、『玉葉』に、関東勢の大将軍は九郎である、ただし「実名はまだ判らない」と書いている。11月2日になっても、「九郎御曹司」としか判らなかったが、義経の名が判ったのはその二日後で、葉室一族に連なり「丹波足立系図」に「葉室・吉田中納言、勧修寺家人々先祖」と書かれた中納言吉田経房の日記『吉記』に「頼朝舎弟、字九郎冠者、その名義経」と書かれたのが最初だった。
『玉葉』には先ほどの10月17日の記事に続いて、
11月2日「頼朝の替わりに九郎御曹司を出で立たす」11月3日「頼朝上洛決定延引、その弟九郎冠者、五千余騎を副え、上洛せしむべしと」
11月7日「次官親能(斎院次官中原)並びに頼朝弟九郎等上洛と云々」と書かれている。
 これは、源九郎冠者義経がその名を都人に知られることになった記念すべき記録であるが、ここに「次官親能、並びに頼朝弟九郎等」と有るのに注目したい。九郎は大将軍であっても都人にとって、まだその時点では未知の人である。それよりは斎院次官親能の方が都人にとって親しみもあったのであろう。

 親能は、もと源中納言入道源雅頼の家人だったのである。先にも書いたように親能は幼年の頃から相模の波多野四郎経家の許で育ち、成人してから都に上がって雅頼の家人になっていた。当然相模時代に頼朝との面識があったし、父の光能、義祖父の足立遠元を通じて、籐九郎盛長や、佐々木兄弟とのつきあいもあったであろう。当然大江広元が近く鎌倉に下ることも知っていたに違いない。
 ところが頼朝が伊豆で挙兵したときは、京都の雅頼の屋敷に潜んでいて、大騒ぎになったということである。
そう言えば雅頼も、八条院・九条家・鎌倉などに連なる人脈の一人だったのである。
 『平家物語』巻第五、物怪、のなかに次のような一文がある

源中納言雅頼卿の許に、召し使われける青侍が見たりける夢も、怖ろしかりけり。たとへば大内の神祇官とおぼしき所に、束帯正しき上揩フ、数多寄り合ひ給ひて、議定の様なる事のありしに、末座なる上揩フ、平家の方人し給ふとおぼしきを、その中よりして追つ立てらる。遙かの座上に気高げなる御宿老のましましけるが、「この日頃平家の預かり奉る節刀をば召し返いて、伊豆國の流人前右兵衛佐頼朝に賜ばうずるなり」と仰せければ、その傍に猶御宿老のましましけるが、「その後はわが孫にも賜び候へ」とぞ仰せける。青侍夢の中に、或老翁に、次第にこれを問ひ奉る。「末座なる上揩フ、平家の方人し給ふとおぼしきは、厳島の大明神、節刀を頼朝に賜ばうと仰せらるるは、八幡大菩薩、その後わが孫にも賜べと仰せけるは、春日の大明神、かう申す翁は武内の明神」と答へ給ふと云ふ夢を見て、覚めて後、人にこれを語る程に、入道相国漏れ聞き給ひて、雅頼卿の許へ使者を立てて、「それに夢見の青侍の候なるを賜はって、委しう尋ね候はばや」と宣ひて、遣はされたりければ、かの夢見たりける青侍、悪しかりなんとや思ひけん、やがて逐電してけり。

 ここに出てくる青侍が藤原(中原)親能だと云われている。まさにこの時期(治承四年九月の始め)に親能は源雅頼の屋敷に潜んでいて、平氏の追補に逢ったことを九条兼実が『玉葉』に書いているのである。こんな所に藤原親能が登場しているのも面白いが、注目されるのは夢の問題、たかが夢とは云いながら、平の清盛が生真面目にそれを聴こうとしたところに、この時代の夢に対する人々の思いが判るのである。

『玉葉』治承四年十二月六日の記録として、
抑今暁、前源中納言雅頼卿家、狼籍の事ありと云々。この由を知らず。今旦札を送り、午後に及び報札到来し、粗この由を載す。欝念能はず。使者を遣はし子細を問ふ。夜に入り使皈り来たり云はく、納言申されて云ふ、先づ御使を賜はり畏り申す。狼籍の次第、凡そ是非する能はず。今朝天已に曙けんとする程、青侍走り来たり云はく、讃岐少将殿御参り、見参すべき由を申さるると云々。即ち衣裳を着け、客亭に出でんとする間、勇士両三人、得たりおうと称す。即ち眼前に走り来たり、已に搦め捕らんとす。凡そ前後不覚、言語道断、正しく手に触るるに及ばすと雖も、大略囲繞する如く近辺にあり。この間又他の勇士等堂上に昇り、剰へ女房等の衣裳を取り、偏に追捕の如し。小時ありて時実少将入来し、狼頼を制止す。その時勇士等退散す。希有に虎口を免る。由緒を時実朝臣に間ふ。答へて云はく、次官親能と申す者、この殿に俵ふ由聞えあり。尋問せらるべき事あるに依り、召さるる所なり。早く召し進らしめ給ふべしといへり。爰に雅頼申して云はく、この事極めて安き事なり。只召し進らすべき由仰せを豪らは、何ぞ召し進らせざらんや。渋り申さるる時、苛真に及ぶべし。左右無く恥辱を顕はす条、左右する能はず。件の男、去夜宿直のため入り来たる。(疋めて侯ふかといへり。時実云はく、早く召し出さるべしといへり。即ち相尋ぬる処、この夜半許り白地に門外に出で、その後今に見えずと云々。時実この由を聞き、慥かにこの殿にある由、前将軍(宗盛)聞かるる所なり。猶求むべしと云々。即ち家中を捜し求むと雖も、敢へて以て見えず。仍つて勇士等を父広季の許に遺はす。その身逃げ脱るるに依り、雑色一人を搦め得たり。即ちこの雑色を以て、尋ね出すべき由、推し懸ると雖も、納言、父已に現に存する者なり。全く懸るべからざる由を申して受け取らず。その後vひに武士等を率ゐ、時実帰り了んぬ。次第かくの如し。この事先世の宿業なり。猶使庁の使に付けらるべき由、風聞あり。この上の事左右只宿運に任すべし。件の次官凡そ召さるる故は、幼稚の昔より相模国人に養育せられ、かの国より成人す。然る間近々謀叛の首頼朝と年来の知音たるに依る。この事に依り、子細を尋ね問はんため、召さるる所と云々(己上雅頼の報旨)。凡そ世間の濫吹狼籍、辞を以て演ぶべからず。筆を以て記すべからず。心うき世なり。この事時忠卿の奉行たりと云々。

 中原親能は頼朝挙兵以前から伊豆地方に縁が深いが、それは少年時代から相模の波多野家で養育されて大きくなったことが関係している。この事は天野遠景が保元の乱以前から足立遠元の猶子となり、遠景の祖父、左大臣有仁親王の伊豆の天野御厨を相続し、頼朝の近辺に居たこととも関連していたのであろう。

 このように見てくると足立遠元、その猶子遠景、婿光能、光能の子親能、同じく廣元という遠元ファミリーの一族が、頼朝挙兵以前の早くから、遠く近く頼朝を取り巻き、見守る立場に立っいたことを物語っているのである。したがって公文所寄人の性格は、足立遠元を核として、鎌倉、京都、甲斐信濃、そして武蔵、いずれにしても初期の鎌倉政権にとって非常に重要な拠点を軸として構成された人事であったことが見て取れるのである。


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