[PR]100万円が無料で当たる!:今すぐ応募して現金を当てよう!


武蔵国紛争へのプロセス


 今まで、平氏の内紛、そしてその合戦の数々をあれだけリアルに活き活きと書いてきた作者が、武蔵の紛争に至って急にトーンダウンし、静かになったのは何故か。それは今までの合戦の記録と違って、突然場所が変わり、登場する人物も入れ替わったことにより、あるいは作者自身がその事態に困惑し、対応に苦慮していたのではなかろうか。

 ここで紛争の発端について話しておこう。

 元々此の紛争の発端は、常陸大掾源護の三人の子、扶・隆・繁が平良兼の娘に懸想し、それを横から将門が奪い去った事に端を発し、それを恨んだ三人が将門を待ち伏せて亡き者にしようとした事に始まる。
一方で国香ら兄弟は、鎮守府将軍として陸奥に赴任する将門の父の良将が、彼に預けて行った領地を、良将が任地の陸奥で病死した事を良い事にして、まだ幼い将門に返さずに押領しようと企み、返還を迫る将門を疎ましく想っていた。将門は国府に訴えてでも取り戻そうと焦るが、当時の領地の大半は、それぞれの土豪が開発した私領であり、土地台帳などなかったからどうする事もできなかったのである。
かくして護の3人の息子が将門を攻めた時、それを応援する形で参戦した国香は3人に次いで敢えなく死んでしまう。

 これに憤激したのが同じく源護の娘を妻とする良正で、これも護の長女を後妻にしている伯父の良兼に将門殺害を働きかけ、娘婿である将門の攻撃に消極的な良兼をさしおいて攻撃を仕掛けるが敢えなく敗退してしまう。良正は再び良兼に働きかけ、それを受けて良兼も、兄弟3人を殺された年の若い妻にせき立てられて重い腰を上げるのである。

 一方、父国香を殺された貞盛は官に休暇届を出して急遽都を後にし、帰省するが事情を聞くとどうも殺された父の国香の方が分が悪い、そこで貞盛は将門に和睦を申し入れ、自分は京の都に帰って身を立てるつもりであるから、父国香の遺領は将門が管理して欲しい、と申し入れ、いったんはそこで和睦が成立する。
その間に良兼・良正らは将門攻撃の準備を進め、貞盛の弟の繁盛を巻き込んでいたので、その繁盛を呼び戻そうと出かけた貞盛を、良兼が拘束し、肉親を取るか姻戚の絆を取るかと詰め寄り、ついに貞盛を拘束したまま合戦へとなだれ込んでしまう。こうなってはしょうがないと貞盛は将門との約束を反故にし、本格的に良兼の陣営の一員になるが、約束を反故にされて収まらない将門は貞盛を憎み、その後徹底して貞盛を攻めていく事になった。

 そうこうする内、天慶2年6月に良兼は病を得て死去し、相次ぐ敗戦に戦意を喪失した良正も『将門記』から姿を消していく。貞盛はこの状況を打開する為に太政官に訴える為に京に登ろうとするが、それを知った将門が信濃国千曲川まで貞盛を追いかけ、そこで徹底的に戦に負けた貞盛は這々の体でようやく京にたどり着き、将門召還の官付を得て常陸に舞い戻り、新たに赴任していた常陸介藤原維幾の許に身を寄せる。
維幾の妻は貞盛りの叔母で、その息男為憲は貞盛にとって従兄弟であった。

 こうした良兼が病死し、良正が脱落して、盟主と仰ぐべき人物がなくなり、肉親同士の合戦が小康状態に陥った頃に武蔵国の紛争が表面化したのである。




[PR]アナタのウラ県民性をチェック:こっそり一人で?ワイワイ皆で?診断しょ