![]()
武蔵紛争の隠された真実
![]()
2004年6月6日 日曜日 20:23:20
読者の目に映るこの紛争の記録は、確かに『将門記』全体の中でも異質である事は、先に述べた渥美かをる氏の言を待つまでもなく事実である。この『将門記』に書かれている内容を見る限りにおいて、無用の長物といわれてもしようがないかも知れない。
しかし、『将門記』の作者が、この物語にとってなんの意味もなさない「武蔵の紛争」をここに挿入したとはとても考えられないのである。
では、この挿話がここに挿入された意味とはいったい何であったろうか。 これはもともと『将門記』全体にとって不可欠な要素ではあったが、作者の言葉足らずの記述によって真意が伝えられなかったのであろう。
今ひとつうがった見方をすれば、作者にとって書く事ができない人物があり、そのためにストーリーが明確に表現できなかったという不可避的な条件があったのである。
これらの事を明らかにする前に、話が前後するが、この挿話に続く常陸国国衙襲撃事件の発端の部分に一言ふれておきたい。これは将門側に合流した藤原玄明を巡る事件として展開されている。
常陸の国に新たに赴任してきた介藤原維幾に逆らい、年貢を押領し、倉を開いて備蓄米を奪取するなど、したい放題の悪業を繰り返して将門の傘下に逃げ込んだ玄明を引き渡すように要求する維幾にたいし、その引き渡しを拒否し、将門は逆に京から帰って国府に寄宿する貞盛の引き渡しを要求した。
この争いに対して新たに登場したのが維幾の息男為憲である。為憲は3000人の兵を動員し、貞盛と共に将門に戦いを挑んだのである。
武蔵守はそれまで藤原維幾が務めていた。維幾はたぶん武蔵在任中に起こった何らかの事件の責任を取らされ常陸介に左遷されたのであろう、武蔵で紛争が起こった時、興世王と源経基が正任の長官が到着する前に足立郡に入り検地を始めようとした為に紛争に発展したと云っているから、紛争が始まった時にはすでに維幾の転任は決まっていたと考えられる。あるいはそれ以前から武蔵武芝との間に何らかの問題があり、その責任を取らされる形で左遷は決まったのかも知れない。
そして新たに、ここに登場したのが維幾の息男、貞盛にとって従兄弟に当たる為憲である。彼は先にも書いたように貞盛の叔母の息子であるが、先に見たように常陸で貞盛に与して将門を攻めている。この為憲が武蔵時代に、貞盛側として何らかの画策をしたのではないかという疑いが浮かび上がってくるのである。
ここで考えられるのは、『将門記』が褒めそやした足立郡司武蔵武芝の事である。彼は天穂日命の流れをくむ足立郡司の家系に生まれ不破麻呂の代に武蔵姓を下賜された名門で、氷川神社の社務職を兼ねていた。
ところが『将門記』はそのことはおろか、その係累縁者の事は全く書いていない。ここでこのページのトップ『平将門と武蔵武芝』及び『武蔵武芝と秩父平氏』のサイトを思い起こしてほい。ここには、私の研究によって新たに明らかになった事実が書かれている。将門は村岡五郎平良文の養子となりその娘を良文の息男忠頼に娶せて将恒が生まれ、武蔵武芝は娘の一人を将恒に娶せて武基・武恒を生んでいる。それらの時期はもう少し後の事であったかも知れないが、このように将門・良文・武芝は親密な関係にあった。
しかも「妙見大菩薩」のサイトでもふれているように、子飼いの渡の合戦で劣勢に陥った将門に助勢してその苦境を救ったという妙見は、もともと良文が母の体内に宿った時、その母の夢に現れ、その後良文の一族の守り神になったといわれ、千葉系図には「母夢日輪入口中成懐妊」、千葉系図別本には「九曜の落子」と書かれている。これから見ると子飼いの渡しで妙見が助勢したのは将門ではなく、共に戦った良文であった。それより前か後か不明であるが将門は良文の養子となり、その後を忠頼が相続したのである。良文はその子息忠頼・忠光らを将門に付けて援護した、乱の後忠光はその罪をとはれて常陸国信太の嶋に流されたという。
良正が戦意を失い、良兼が病死し、孤軍となった貞盛は京都の太政官に告訴する一方で、為憲に働きかけ彼との相談の上で、将門を政治的に追いつめる策を考え、たまたま都から下ってきて、血気にはやっている興世王と源経基に年貢の増収策を働きかけ、温厚な武蔵武芝との間に紛争の種を醸成し、一方で将門側にそれとなくその経緯を通報する。
将門は
「彼ノ武蔵等ハ我ガ近親ノ中ニ非ズ。又彼ノ守・介ハ我ガ兄弟ノ胤ニ非ズ。然レドモ彼此ガ乱ヲ鎮メンガ為ニ、武蔵ノ国ニ向ヒ相ムト欲ス」
といって武蔵に向かう。
為憲は新任で武蔵の事情に疎い興世王・源経基を一方で嗾け、同族間の争いに勝利して鼻息の荒い将門と衝突させて、あばよくば国衙との衝突の形に持ち込み、将門を謀反に誘い込むのが狙いではなかったか。
そうして自分は素知らぬ顔で父の任地、常陸に移り住むという算段であった。
私は、子飼いの渡し、染谷川の戦いに将門側の一員として参戦したはずの良文が、何故『将門記』に登場しないのかが不思議でならなかった。
『将門記』の作者は徹底して将門を擁護し、その将門側の立場で物語を書いている。しかし前半の同族の争いではあれだけはしゃいでかき立てた作者は、武蔵紛争を堺にその快活さの影を潜め、その後は中国の故事を引用したり、仏教用語を多用して物語の隙間を埋め、何とか間を持たせようと苦慮している。それは書く事のできない人物の存在によって、つじつまの合わなくなったストーリーを湖塗する為もあろうが、今ひとつは武蔵紛争を契機にして国に対する犯罪、謀反に引き込まれていく将門の姿を苦渋の思いで見、そして書かねばならなかった作者自身の苦しみの姿であったような気がするのである。
これらの事から考えて、この作者のスポンサーは、おそらく平良文であろう。確かに上に書いたように子息忠光は罪に問われたかも知れないが、彼自身はこの乱において何ら傷つくことなく、良兼、良正の子孫が逼塞していく中で、彼の子孫は栄え、その過程には忠常の乱などもあったがそれさえも無難に乗り越えて、後に坂東八平氏といわれるように発展していったのである。
986年、寛和2年に武蔵国村岡郷で、忠頼・忠光の兄弟が、比叡山への使者として京へ登ろうとしていた平繁盛の従卒を、仇敵としてさんざんに痛めつけた話が伝わっているし、その後も貞盛の子孫とは仲が悪く、貞盛系一族に対する遺恨は250年を経た鎌倉時代になっても未だ癒えず、源平の争乱に際し頼朝側に荷担した坂東八平氏は、伊勢兵士の末葉、平清盛の一族を壊滅するまで追い込んでいった。
その意味において、もし承平・天慶の乱がなければ、頼朝の鎌倉幕府の誕生はあり得なかったと云えるのかも知れないのである。そうして250年前に将門が夢にまで見た武家の時代を迎える事になった。